わたしは3歳から18歳まで、場面緘黙症・全緘黙症という、簡単に言うと言葉が話せない症状を抱えていました。
わたしは今では克服し、社会に出て仕事をしていますが、今なお場面緘黙症でつらい思いをしている方、克服しても生きづらさを抱えている方もおられるようです。
場面緘黙症というものは、不安になりやすい気質を持っている方がなりやすいようで、
とても繊細で、傷つきやすい心を持っている方が多いのかもしれません。
わたしも今では心が強くなりましたが、子供の頃は人に対する関わりが過敏で、傷つきやすく、「ガラスのハート」だと言われたことがあります。
そんな子供時代、わたしの理解者、心の支えになってくれていたのが「母」そして「祖母」の存在だったと思います。
そんな家族の存在があったからこそ、今の「わたし」があるのだろうと思います。
伝えられないもどかしさ
わたしは小学校4・5年あたりから18歳まで、家族とも話ができませんでした。
何かを伝えたくても伝えられないし、自分でもどうしていいかわからない。
母にとっては「わたしがどうしたいのか?」がわからないことも多かっただろうと思います。
多感な時期に、わたしはわたしで抱えている問題。
でもできない。自分でもどうしていいかわからない。
何かで意地を張っていた時に母もどうしていいか分からなかったのだと思います。
一度だけ「どうして欲しいんよ!」と悲しさ、悔しさが込められた感情をわたしにぶつけることがありました。
でも、母から責められた記憶はその一度だけで、
どんな状況でも、わたしの思いを分かろうとしてくれていました。
思いをきいてくれていた
子供時代のわたしは繊細で傷つきやすかったですが、とても頑固でした。
「嫌なものは嫌」という頑固な性格と伝えられないこと、繊細さが混同し、親からすると難しい子供だったんだろうなと思います。
二つのエピソードがあります。
児童相談所
わたしが小学校5、6年の頃だったと思います。
担任の先生の紹介で母親と「児童相談所」に行くことになりました。
わたしはそれがすごく嫌でした。
行く前に、泣いて、泣いて、行くことを拒みました。
なぜ嫌だったのか、記憶は曖昧ではありますが、
「児童相談所に行くということは、自分が特殊なんじゃないか」
という思いがあったのかなと思います。
人と話せない自分だからこそ、「普通の子供」として過ごしたいという気持ちが強く、
「なぜそんなところに行かないといけないんだ」という気持ちがありました。
相談所についてからも、相談を受けてくれる人には一切心を開きませんでした。
でも母親と二人きりになった場面になると心がゆるみ、
「箱庭療法」で、砂にフィギュアを置いていました。
また誰かが入ってくると、一気に心を閉ざしていました。
そして帰り際、母と二人で待っている時に母が、
「もうここへ来なくてもいいって言ってくれたよ」
と言ってくれました。
わたしはその言葉を聞いて、すごく嬉しい思いをしました。
進路のこと
親はわたしが地元の高校へ行くと思っていました。
わたしもその高校を進路に書いていたのですが、
「それでいいのだろうか?」
と思っていました。
学校でも家庭でも話をすることが出来ずに過ごし、
このしんどさから逃れる方法、
自分を変える方法、
それが「話をする」ということなのではないかと。
「どの高校を選ぶか?」
それがわたしの分岐点のような気がしました。
環境が変わり、わたしのことを知っている人がいない場所で、わたしは話ができるようになるんじゃないかと思いました。
でも、その気持ちを伝えることが出来ません。
親の考えとの相違。
自分の気持ちを伝えられないもどかしさ、先行きの希望、不安、恐れ。
そんな思いを抱えながら、進路についての最終確認の三者面談だったと思います。
面談は、母が全て答えてくれていました。
母:「〇〇高校(地元の高校)です」と。
母が担任の先生にそのことを伝えた瞬間、「嫌だ!」という感情があふれ出しました。
いても立ってもいられず、わたしはドアを思いっきり「バンッ」と閉め、教室を飛び出していました。
きっと担任の先生と母は、わたしの突飛な行動に驚いていたと思います。
でもそれがわたしの行き場のないあふれた感情を出せる方法でした。
どこへ行くあてもなく、わたしは家に帰っていました。
申し訳ない気持ちと自分でもどうしていいか分からない気持ち、
わたしの気持ちをわかってほしい気持ち・・・。
わたしが部屋でうずくまっていると、母が帰ってきました。
とんでもないことをし、何か言われると思っていました。
でも、わたしの顔を見て開口一番、
「ゆか、歩くの早いなぁ」
と笑顔で話しかけられました。
そしてわたしのそばに来て「〇〇高校、嫌なん?」と聞いてくれました。
わたしはうなずき、「やっと伝えることができる」という気持ちをもち、高校のパンフレットを持ち出し、行きたい高校のページを母に見せました。
母はこの高校に行きたいというわたしの思いをはじめて分かってくれました。
そして、わたしのした行動を責めることなく、そっとわたしの思いを分かろうとしてくれた母の優しさがとても嬉しく思いました。
母と祖母の存在
場面緘黙症、全緘黙症になっても母から「なぜ話さないの?」と聞かれた記憶はありませんでした。
ただわたしの状況を見守り、受け入れようとしてくれていたように思います。
時に、「どうしたいん?」とわたしの伝えたいことがわからず、母ももどかしい思いをした場面もありましたが、
わたしの気持ちをそっとわかろうとしてくれていました。
母は母で家のことや仕事のことで忙しく、わたしのことを考える時間がなかったり、
どうしていいか分からない気持ちが、そういった母を作り出したのかもしれませんが、
わたしの思いを優先し、理解してくれていた存在だったなと思います。
わたしはそれがすごく、心地よく感じました。
そして、祖母の存在も大きかったです。
祖父が亡くなり、祖母が寂しいから一緒に寝てほしいと父から言われ、わたしはずっと祖母と寝ていました。
そのためか、わたしはおばあちゃん子で育ちました。
祖母からも、話さないことに対して何か言われた記憶もなく、気がつけば寄り添っていた、とても大きな存在でした。
場面緘黙症の子供への関わり
わたしの子供時代、母や祖母からしてもらった関わり方は、わたしにとっては「よかった」と思っています。
でも人の性格、場面緘黙症の症状も十人十色で、わたしには「よかった」ことでも他の子供たちにとっても同じようにいいのかということはわたしには分かりません。
それは、その子と周りの人たちとの関係性のなかで築かれていくものなのかもしれません。
そのため、あくまでわたしの経験から、わたしがしてもらってよかったことしか伝えられないのですが、
なにか参考になればいいなという思いで、最後にそれを伝えられたらなと思います。
いろんな悲しくて、つらい思いを抱えすぎて、自分でもどうしていいか分からないことがたくさんありました。
それを分かろうとしたい周りの人たちも、もどかしい思いをしていたのだろうと思います。
でも、それを責めることなく、「話させなければ」と焦ることもなく、見守ってくれました。
わたしの気持ちを察してくれる、わかってくれる、
わたしの気持ちを相手に伝えてくれる、
見守られながら、そんな積み重ねがとても大事でした。
そして、わたしは自分が話したいと思えたタイミングで学校で勇気を出して行動できました。
わたしが話すときまで何も言わなかったし、わたしが話したことにも、話した後にも何も言わず、自然に関わってくれました。
わたしは家庭のなかでも話ができなかったのですが、家庭外で話したときに他の人たちが、自然に関わってくれたことが安心したように、家庭でも家族と話したときに自然に関わってくれたことが、とても安心できました。
わたしの思いをわかろうとしてくれた、わたしの伝えたいことを相手に伝えてくれた、
話さないことに対して何も言わず、見守ってくれた家族の存在は大きく、とてもありがたかったです。
自分から行動できたという”勇気”は、大人になっても自信につながっているなと実感しています。
子供の頃は、自分のことが精一杯で親がどんな思いをしているかなんて考えることはできませんでした。
でも、今となっては、たくさん大変な思いをさせてしまっていたんだろうと思っています。
そして、わたしにそんな関わりをしてくれた母。
子供時代の繊細で多感な時期の母の存在は、本当にありがたく、心の支えでした。
一番近くで見守ってくれた家族にあらためて感謝の気持ちを持ちました。
これからもたくさんたくさん、感謝の気持ちを伝えていきたいと思います。
では長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。