こんにちは(^-^)
緘黙症時代を思い返すと、人との関わりでつらかったことはありました。
でも今では悲観的にとらえておらず、むしろプラスにとらえています。
一番印象的な場面は幼稚園児(5、6歳)の頃の話です。
そのころのわたしは幼稚園でかなりの反抗的な子供でした。
当時の写真を見返すと写真をにらみつけ、ふてくされているような態度が映っています( ;∀;)
当時の自分を思い返してみても、他人をにらみつけていたなと思い出されます(*^_^*)
人に対して、特に幼稚園の先生に対しての不信感が強かったのだと思います。
幼稚園が終わり、母親の迎えを待っているときのことです。
わたしが一番最後に残ってしまい、一人で母親の迎えを待っていました。
そのときに、先生にロッカーのなかに閉じ込められたのです。
なぜ、閉じ込められたのかは覚えていないのですが、ロッカーの暗闇のなかでロッカーをたたき、泣きわめいていました。
先生の「しゃべったら出してあげる」という声が外から聞こえます。
でも、わたしは話せません。
そのままわたしはしゃべらず、暗闇のロッカーのなかでロッカーをたたき、泣いていました。
外では先生の何か面白がっているような声が聞こえます。
そして、先生の「迎えにきた」という焦ったような声が聞こえ、わたしはロッカーから出してもらえました。
迎えにきた母親に対して、何もなかったかのような顔で話す先生に対してわたしは涙ながらに、にらみつけていました。
ロッカーに閉じ込められ人が悲しんでいるのにそれを面白がる心、母親と接するときの何事もなかったかのように取り繕う心があるのだと知りました。
わたしが反抗的な態度をとるようになったはっきりした原因は覚えていませんが、その先生に対する不信感からそんな態度をとっていたのかもしれません。
この場面を思い出すということはわたしにとって、結構大きかった過去なのだと思います。
なぜ、そんなことをしたのか?
今ではその先生に会うことがないため、真相はわかりません。
でも何かしら理由があるのは確かです。
わたしはこの経験を悲観的にとらえるのではなく、そうした理由・原因がなんだったのかを考えました。
ただ「そうされた」という悲観的な感情で支配されるとその場面が悲観的なもので覆い尽くされてしまいます。
でも、そうした理由・原因が必ずあるのだと思うとネガティブな感情に支配されず客観的に見ることができ、むしろ「学び」としてとらえることができます。
つらかった過去を、悲観的に見るだけでは前に進みません。
わたしは客観的に見ることが大切なのかなと思います。
客観的に見るには、切り離して考えることが必要です。
この「切り離す」という考え方があらゆる面で重要だと思います。
またその記事について書きたいと思いますが、今回の記事で伝えたかったことは、過去に対するとらえ方です。
当時の経験はつらかったことですが、過去を思い返すとつらかったことより他のよかったこと、嬉しかったことがわたしのなかでは重要なこととして思い出されます。
わたしは自分を受け入れ、ネガティブなことでもなにか学びがあるのだとプラスに考えられるようになりました。
自分の思考が変わると、過去に対するとらえ方も変わり、つらかった過去も学びの一つとしてとらえることができたのです。
学びとしてとらえると、どんな過去も受け入れることができます。
人生を生きる上で過去をどうとらえるかはとても大切なことだと思います(^^)
とらえ方次第で過去に対する見方が変わるのだと思います。
今ではつらかった過去も貴重な経験です(^-^)