はなゆかです。
今回は緘黙症時代の嬉しかったことを伝えたいと思います。
緘黙症時代に嬉しかったこと、それは「普通に関わってくれた」ことです。
緘黙症時代のわたしは「みんなと違うわたし」という感覚を持っていました。
声を出せないため「みんなと同じように返事ができない」
「授業の発表でみんなと同じように手が挙げられない」
歌の発表会では「みんなと同じように歌が歌えない」・・・
みんなと同じようにできないことで「特殊な子」と注目される怖さとも戦っていました。
そんなあるとき(小学生5、6年の頃でしょうか。)わたしのクラスに研修で女の先生が来たのです。
その先生のわたしに対しての関わりが、とても自然体でまるで身内のおねえちゃんのような感覚でした。
普通なんです。
その感覚が伝わりづらいかもしれないですが、他の人との関わり方と違ったのです。
周りから見ると、その先生も他の人もわたしと普通に関わってるんじゃない?と思うかもしれないのですが、受け取る側のわたしの感覚が違いました。
本当に普通に話しかけてくれて、とても嬉しくて暖かい感覚がありました。
わたしが職員室で挙動不審な態度をとっても、普通につっこんでくれる。そのツッコミも嫌な感じがなく、受け入れてくれる感じです。
わたしが緘黙症を持っているからと特別視する態度もなく、本当に「一人の子供」としてみてくれて関わってくれている感じがしました。
でも普通に関わってくれる。
わたしは話せないためにみんなと同じようにしたいけどできないことが多く、一般的な子供として過ごすことができないことに何より引け目を感じていました。
いつもみんなと比べて、できない自分に落胆し自信がなかったように思います。
でもわたしは「みんなと同じようにしたい!」と心の奥では思っていて、負けず嫌いだったかな。
一番覚えてるのは、鉄棒のひざ掛け後ろまわりの練習でみんなが次々と成功していく中でなかなかできず、ひざの裏が青あざだらけになりながらも必死で練習したり。
クラスの中で「話す」以外の手段でいかにみんなと同じようにできるかがわたしの中での課題だったと思います。
そんな「みんなと同じように」という意識が強かったからかもしれません。
研修の先生の「みんなと同じように普通に関わってくれた」ことが本当に何より嬉しかった。
緘黙症時代で嬉しかったことで一番に思うことです。
もし、周りに緘黙症の子供さんがいる方にその子に対する関わり方をわたしからアドバイスができるなら「普通に一人の人として関わってあげること」と伝えたいです。
普通に関わってその子を認めてあげる。
特別、何かをする必要はないのです。
その子はみんなと同じようにできない劣等感を抱えているかもしれません。
一人の子供として普通に関わってくれるだけでいい。
一人の子供として存在を認めてくれることが、その子の一人の人間としての存在意義が生まれ、自信につながるのではないでしょうか。
自然体の関わりの中で、張り詰めている緊張がほぐれ、もしかしたらその子は心を開いてくれるかもしれません。
それがわたしの経験談から伝えたいことです。よければ参考にしてみてください。