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わたしの場面緘黙症・全緘黙症時代 〜声を出せなかった幼少期、青春時代〜

 はなゆかです。

  

わたしは物心ついたときから18歳まで緘黙症でした。

ここで緘黙症だったことについて書きたいと思います。

 

↓ここで緘黙症について↓

場面緘黙とは

家庭ではごく普通に話すのに、幼稚園・保育園や学校などの社会的な状況で声を出したり話したりすることができない症状 が続く状態を言います。体が思うように動かせない緘動(かんどう)という状態になることもあります。話せない場面は様々ですが、発話パターンは一定しています。場面とは「場所」「(そこにいる)人」「活動内容」の3つの要素で決まります。

 海外では、場面緘黙は小児期の不安障害であり、「自分が話す様子を人から聞かれたり見られたりすることに怖れを感じる」恐怖症の一種ととらえ治療や支援を行なうという考えが主流となっています。

 自分の意思で「話さない」わけではありません。「話せない」のです。これは誤解が多いポイントです。これまでは、「場面緘黙は大人になれば治るもの」と考えられてきました。しかし、適切な支援なく学校生活をすごした場合、長期にわたるストレス状況から、うつ的症状や不登校などの二次的な問題へとつながるケースも見られます。海外の資料によれば、たとえ発話ができるようになったとしても、成人後に社会不安障害などの不安障害に悩まされることも多く、早い時期からの適切な対処の重要性が強調されています。

 

出典:かんもくネット

 

 

上記は場面緘黙についてですが、あらゆる場面で緘黙症状が出ることを全緘黙症といいます。

緘黙症時代

緘黙症だったころは一言でいうとつらかったです( ;  ; )

 

何がつらかったかというとやはり声が出せないことでした。

 

人とのコミュニケーションは「はい」か「いいえ」もしくは「わからない」を首をふって意思を伝えるだけでした。

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学校では幸い、理解してくれる先生や同級生に恵まれており、声を出すことを強要されるということもほとんどなく、いじめられるということもありませんでした。中には嫌なことを言う人もいましたが基本的に優しい人たちが多かったです。

 

発表などの場においてもわたしでもできるようにと「声をだす」こと以外の手段を考えてくれました。

 

でも、

 

「みんなと同じようにできないわたし」

 

と考えてしまい、いつも引け目を感じていました。

(今考えると声を出すこと以外の手段を考えてくれて先生方には本当に感謝しています)

 

 そんな生活を送っていましたが、とくに一番つらかった時期がありました。

 

小学校4、5年ぐらいから中学校の終わりまでの時期です。

 

 わたしはこの期間、学校はもちろん家庭でも話ができなくなっていました。(全緘黙症といわれるものです)

  

一緒に暮らしている家族にも声を出すことができず、とてもつらく、苦しいものでした。 

全緘黙症になったきっかけ


わたしは親の顔色、特に父親の顔色を常にうかがいながら生活していました。

 

父親は自分にも他人にも厳しく、また他人の評価や世間体を気にする人で子供心に親の性格を察知していました。

 

わたしの家庭は彼岸やお盆などには親戚の人たちが集まって毎年会食をし、そのときにも緘黙症の症状がでて親戚の人たちがいるなかで一言も話せませんでした。

 

そして、帰るとまた話せるわたしになる。

 

そのときのわたしの心境は複雑なものでした。

 

「父親に申し訳ない」

 

「親戚の人に挨拶もせず、話もできず父親はわたしのことをダメだと思っているのではないか。」

 

わたしには直接なにもいわない父親でしたが、親戚の人たちが帰ったあとの父親の表情や態度でわたしに対しての気持ちを感じていました。

 

 そんな経験があるたびに、普通の子供として他人と関われず、自分が情けなくて父親に対して後ろめたさを感じていました。

  

そんなある日、親戚の人たちが帰り、わたしが言葉を発したときに姉から「親戚の人帰ったら話すんやな」といわれたことが全緘黙症になるきっかけでした。

 

「わたしだって普通に話したい・・・!」

 

今までその集まりがあるたびに、親に対しての後ろめたさ、自分の不甲斐なさを感じていました。

 

「この集まりがあるたびにわたしは辛い思いをする。普段から話さないならこんな思いはしなくていいんじゃないか」

  

こうして姉の一言がきっかけで家族の前でも話さないようになりました。

このときのわたしなりに考えたわたしの心を守るための手段でした。

 

そこから全緘黙症が続きましたが、それはつらいものでした。 

 

全く声を出せないことがこんなにもつらくて、苦しいのかと・・・。

いくら家族であっても一度、話せなくなるとなかなか元には戻れません。

 

そんな状態が中学校終わりまで続きました。

  

家でも学校でも声がだせないことで気がくるいそうになることが何度あったことか。 

 このときのストレスは半端ではなかったと思います。

 

 そして高校進学のときがきました。

 

 これがわたしの転機でした。

 

「わたしを知っている人がいない場所でわたしは話したい。」

 

地元からやや離れた高校を受験し、晴れて合格しました。

転機・新たな出会い


周りに知っている人が誰もいない高校生活が始まりました。

 

 このときのある同級生との出会いがわたしを明るい未来へ導いてくれました。

 

 入学式当日、見知らぬ人たちばかりで自分から話しかけることもできず終わろうとしたとき、ある同級生から声をかけてもらえたのです。

 

「同じクラスの子やんな?明日から一緒にお弁当食べようよ」

 

話しかけられた緊張で頭が真っ白になりましたが「ここがチャンスのときだ!」と思い、渾身の勇気をふりしぼり、

 

「うん!」

 

と声に出しました。

 

そこから、徐々に学校で一言二言と話せるようになり、あまり話せないわたしでも優しい同級生に恵まれ高校生で初めて「友達」という存在ができました。

  

こうして学校で話ができるようになりました。

 

 一方、家族の前ではなかなか話をすることができませんでした。

(場面緘黙症は家庭では話ができるが学校などの場では話ができない、ということが定義となっていますが高校時代のわたしの場合、逆ですね。この状況が場面緘黙症というのかは疑問ですが。)

 

 一番困ったことは三者面談です。

 学校では話しているわたしが家族の前では話さないため、面談で一向に話さないわたしに担任の先生が困り顔だったことを覚えています。(笑)

  

高校3年生あたりから家庭でも徐々に声を出して笑ったりと声をだせるようになってきました。

家庭でも学校でも話をするというまでになれたのは高校生活の終わりでした。

   

こうしてわたしの長い緘黙症時代が終わりました。

  

わたしの緘黙症のケースは場面緘黙症→全緘黙症→家庭で話さない場面緘黙症?といった感じです。

 

 緘黙症といってもその人により、さまざまなケースがあるのだと思います。

生まれ持った素質も違えば育ってきた環境もちがうので当たり前かもしれません(^^)

 

もし緘黙症でつらい思いをされている方が「話をしたい」と思える状況になった時にわたしから伝えられることは、

 

「話したい。」という気持ちがあるなら、話せるようになります。

 

「話したい。」という気持ちがあるなら、話せるための状況はでてきます。



わたしの最初の一言はとても勇気のいることでした。

 

 でも、あのとき勇気をだしてよかったと思っています。

 

話したいと思っていれば、話せるチャンスはおのずと訪れます。

そのときに勇気をだすと、話ができる新たな自分と出会えると思います。

 

これがわたしの経験から思ったことでした。

 

では、最後まで読んでいただきありがとうございました。 

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